JYPark(パクジニョン)とは?親日でSMAPに楽曲提供?性格・経歴・プロフまとめ!

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次世代ガールズグループオーディション「虹プロジェクト」の爆発的な人気により、総合プロデューサーのパクジニョン(JYPark)さんに注目が集まってます。

Sonyミュージックとタッグを組んだJYPエンターテインメントの元社長であり、また現役アーティストとして活躍するK-pop界の超大物。

Twitterでは、練習生に寄り添うJYParkさんの優しい性格・人柄を絶賛する声も多く、”パク人気”が爆発しています

今回は、JYPark(パクジニョン)について

  • プロフィールや凄すぎる経歴
  • 人柄や性格
  • 親日エピソードやSMAPとの関係

を中心にご紹介していきます。

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【JYPark(パクジニョン)とは】wiki風プロフィール

 

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本 名 :パクジニョン(朴 軫永)
表 記 :박진영
別 名 :J.Y.Parl
生年月日:1972年1月13日
年 齢 :48歳(2020年6月現在)
身 長 :185cm
体 重 :78kg
血液型 :AB型
デビュー:1994年
職 業 :シンガーソングライター、実業家
出身地 :大韓民国・ソウル市
学 歴 :延世大学 地質学科
趣 味 :バスケットボール、囲碁
※戸籍上は1971年12月13日生まれ 

歌手、ダンサー、作詞・作曲家、音楽プロデューサー、俳優、社長、JYPエンターテインメントの筆頭株主など、幅広い顔を持つK-pop界のレジェンド・パクジニョン(jypark)さん。

2020年で48歳を迎えた現在でも、若かりし頃と変わらない厳しいトレーニングや厳格な食事・体重管理を行い、キレキレのダンス&ボーカルパフォーマンスを披露しています。

特にこれまで「ソロ歌手」「プロデューサー」として、数々のヒット曲を世に送り出す輝かしい実績をあげてきました。

一時期、韓国では、街を歩くとパクジニョンさんが携わった楽曲しか耳にしないほどだったそうです。

ここで、パクジニョン(JYPark)さんがシンガーソングライター時代に発表した作品をご紹介いたします。

代表曲

  • 僕から去らないで (1994年)
  • 俺は彼女がいるのに (2001年)
  • 君が住むその家 (2007年)
  • No Love No More (2009年)
  • 君だけだ~You`re The One~(2012年)
  • Who’s your mama? (2015年)
  • Still Alive (2016年)

2000年代に入ると、自身の活動を抑制しプロデューサー活動に専念。

一度は聞いたことがあるであろう「超人気グループ」をいくつも誕生させ、韓国音楽界ではパクジニョン旋風が巻き起こっていました。

プロデューサー

  • god
  • ピ(Rain)
  • 2AM
  • 2PM
  • missA
  • GOT7
  • TWICE
  • StrayKids
  • ITZY

1994年のソロデビュー以降、プロデュース曲も含め約20数年間で、45曲以上の楽曲がヒットチャートで1位を獲得しています。

2012年~2014年には、著作権収入ランキングで1位を記録するなどK-pop界のトップに君臨していました。

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【JYPark(パクジニョン)とは】延世大学出身で高学歴!

パクジニョン(JYPark)さんは、「延世大学」の地質学科出身ですが、実は、韓国では高麗大学と並ぶ超のつく有名私立大学。

日本でいう「早慶」と同じような高学歴で伝統のある学校です。

韓国の「お受験戦争」は日本とそれと比べ物にならないほど、厳しく激しい争いですが、パクさんはその難関を乗り越えてきた学力の持ち主。

延世大学 (引用:韓留ドットコム)

また、語学も非常に堪能。母国語の韓国語以外に「英語」「日本語」を話すことができるトリリンガルです。

幼少期に米国生活をした時期もあったからか「英語」が特に得意。ネイティブレベルの発音と会話力を備えております。

虹プロジェクトでは、同じくトリリンガルの横井りま(リマ)と英語で会話するシーンが放送されていましたが、2人ともかなり流暢で驚いた方も多かったでしょう。

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【JYPark(パクジニョン)とは】天才アーティストの性格は?

これだけ実績・名声を自分の手におさめている人間であれば、「天狗」になってもおかしくないはずですが….

虹プロジェクトでは、日本のメディアに登場する姿を見ると、パクジニョンさんから「おごり」や「怠慢」な姿勢は一切感じません。

また、練習生1人1人のことを丁寧に、冷静に観察し、的確なアドバイスを送るシーンが印象的です。

時には、鋭い目つきで厳しい言葉を発することもありますが、その裏には、常に相手の成功を真剣におもう「深い愛情」が感じられます。

パクさんの「性格」を表すキーワードをざっと挙げてみると。

  • 優しい
  • 感受性が豊か
  • 謙虚
  • 真面目
  • ストイック
  • 誠実
  • 冷静

要するに、とにかく「いい人」です。

また、もうすぐ50歳を迎えるいまでも、現役ダンス歌手として安定したパフォーマンスを披露するために、毎日欠かさずストレッチや筋力トレーニングを行っており、努力家でストイックな性格でもあります。

以前、テレビ番組でパクジニョンさんの日課を紹介されていました。

ハードすぎる日課

7:00  起床→日本語の勉強
8:00  朝食(オイル、ドライフルーツなど)
8:30  子供&ペットと遊ぶ
9:00  ストレッチ&運動(筋トレ・姿勢矯正)
11:00   ピアノ&歌の練習

一体、なぜこんなにハードな毎日を送っているのか??

理由は、「60歳で最高のパフォーマンスを魅せること」がパクさんの目標だからで、絶対実現するために、毎日の健康や体重管理を厳しく行っているそうです。

その他にも、「1週間の半分は1日1食」「トイレに行く時間を決めている」などびっくりするようなルーティンワークも数多くあります。

パクさん自ら厳しい自己管理を「体現」しており、所属アーティストの良い手本になっているそうです。

リーダーシップに優れた方ですね。

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【JYPark(パクジニョン)とは】昔から親日家でJ-popの大ファン!

パクジニョン(JYPark)さんは、昔から大の親日家でJ-POPも大好き。

きっかけは、サザンオールスターズの桑田佳祐率いるKUWATA BANDの楽曲『スキップビート』に触れたこと。

幼少期に住んでいた米国でブラックミュージックをこよなく愛していたパクジニョン(JYPark)さんですが、帰国後、「日本にもこんなクールな曲があるのか」と感激したそうです。

この楽曲との出会いが「歌手」を目指すきっかけになったとも言われています。

サザンの影響力は国をも超えるんですね。

裏話ですが、当時の韓国は、日本の音楽カルチャーに触れることを禁じられていたそうで、闇市でこっそりCDを買って音楽の勉強をしていたそうです。

また、「小室哲哉」を崇拝しており、小室プロデュース・渡辺美里の楽曲「My Revolution」を中学時代によく聞いていたそうです。

2011年には、雑誌「日経エンターテインメント」で対談が実現し、プロデュース論について熱く語っていました。

そんな日本の名プロデューサーの成功エッセンスをパクさんは貪欲に吸収し、プロデュース業で成功をおさめると、「韓国の小室哲哉」と呼ばれるようになりました。

その他にも「チェッカーズ、安全地帯、久保田利伸、LL BROTHERS、ZOO」などのアーティストの曲も聴いていたと語っていました。

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【JYPark(パクジニョン)とは】SMAPに楽曲提供していた

実は、パクジニョンさんは、日本の国民的アイドルグループだったSMAPに楽曲提供をしていた過去がありました。

提供曲はこちら。

楽曲

2008年4月 『White Message』(シングル)
2008年9月 『Still U』(アルバム収録曲)

この日韓コラボは、パクジニョンさんがプロデュース業の全盛期を迎えていた2000年代、彼の音楽に関心を抱いた「ジャニーズ事務所」側が楽曲提供を依頼したことがきっかけで実現しました。

実は、いずれの曲にも「J.Y.Park “The Asiansoul”」のクレジットが入っていたんですね。

なお「White Message」は、オリコンチャートで見事1位を獲得。

自国以外のトップアーティストに楽曲提供しトップをとる快挙を果たし、名実ともに世界的なプロデューサーの仲間入りを果たしました。

その他にもR&B歌手AIに「Too Much feat. Rain」を書き下ろすなど、意外にも日本の人気アーティストと多く接点を持っていました。

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【JYPark(パクジニョン)とは】凄すぎる経歴まとめ

ダンスボーカリスト、プロデューサー、実業家として大活躍してきたパクジニョンさんの経歴をご紹介していきます。

まずは、年表でざっくりと振り返っていきましょう。

ざっくり経歴

1978年 家族で渡米
1989年 KUWATABANDに出会う
1992年「パクジニョンと新世代」でデビュー
1994年 ソロR&B歌手としてブレイク
1997年 テホン企画設立
2001年 JYP Entertainmentに社名変更
2003年 米国進出
2008年 「未来企画委員会」委員に任命
2015年 TWICEをプロデュース
2019年 ITZYをプロデュース
2020年 NiziUをプロデュース

2010年代以降は、JYPエンターテインメントの躍進は凄まじく、KOSDAQ(証券取引所)の時価総額は、1兆ウォンを超えるまでに (日本円約 900億)成長。

YGエンターテインメント、SMエンターテインメントと並ぶ韓国3大芸能事務所の1つに数えられるまでになりました。

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また、数多く受賞歴もあります。

  • 2001年 Mnet(Asia)ベストR&B賞
  • 2009年 Mnet(Asia)ベスト作曲家賞
  • 2015年 Mnet(Asia)ベストプロデューサー賞
  • 2015年 Mnet(Asia)男性歌手賞
  • 2016年 ゴールデンディスクアワード(楽曲)

これだけ、さまざまな分野で「トップ賞」を獲得しているアーティストは他にいないんではないでしょうか。

マルチすぎる才能で「天才」と言われる理由がこれだけでよくわかります。

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【JYPark(パクジニョン)とは】経歴(1) 幼少期

パクジニョンさんの母親いわく、小さい頃はとにかくワンパクで自由奔放。

好奇心の赴くままに、やりたいことを何でもやる子供だったそうですが、いつの日からか特に、「音楽」に没頭していったそうです。

そして、パクさんが本格的に音楽の道を選ぶきっかけとなった、人生のターニングポイントが大きく2つあります。

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米国移住

小学1年生の頃、父親の仕事都合で、家族全員で渡米。約2年間、ニューヨークでの生活を経験してますが、その頃に出会った「ブラックミュージック(黒人音楽)」の魅力にどハマり。

特に、マイケルジャクソンの大ファンで、デビュー後の音楽性やパフォーマンスに大きな影響を与えています。

また、この頃からダンスのリズム感や感覚が優れていたらしく、黒人とのダンスバトルで勝ってしまうほど。

KUWATABANDの影響

アジア人にも関わらず、自分の大好きなブラックミュージックをかっこよく表現しているアーティスト(桑田佳祐)を知り、大きな衝撃をうけました。

「自分もこうなりたい」と感じたパクさんは、歌手になることを決意しました。

高校時代は、よくディスコに通いダンスの腕を磨いていました。のちに、その姿を見た芸能関係者にスカウトされます。

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【JYPark(パクジニョン)とは】経歴(2) 歌手

1992年、歌手のキムスチョルプロデュース「パクジニョンと新世代」というグループで歌手デビューを果たしました。

しかし、全く売れず。再デビューのきっかけを掴むためにオーディションを受け続けるもすべて落選。厳しい下積み時代を過ごしていました。

この頃からダンス歌手を志すようになると、自身の作曲した「Don’t leave me」を持ち歌に多くの芸能事務所オーディションを受けました。

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しかし、またもすべて不合格。最後に受けたSMエンターテインメントでは「歌もダンスもいいけど、顔がダメ」という理由で落選してしまったそうです。

さらに、SMの社長からは「曲だけ売らない?」という打診されたことで、さらにガッカリしたパクジニョンさんは、その依頼をキッパリと断ったそうです。

八方塞がりとなったパクジニョン(JYPark)さんですが、たまたまSMオーディションの曲を聴いた業界関係者の目に止まり、小さな芸能事務所から歌手人生をスタートすることになりました。

1994年、やっとの思いで、R&Bソロ歌手として再デビューを果たします。

1stアルバムの楽曲「Don’t leave me(날 떠나지마)」は、元々(オーディション時)、バラード曲でしたが、ダンス曲に編曲。

これが功を奏し、当時新人俳優だったチョンウソンが出演するガムCM曲に起用されると、爆発的にブレイク。

当時の韓国歌謡界では、黒人音楽とセクシャルなダンスを取り入れたとR&Bスタイルは珍しかったので、注目を集めました。

さらに、パクジニョンさんの奇抜すぎる格好が保守的だった歌謡界に衝撃を与えました。実際の画像はこちら。

黒い三角パンツに透明のビニールズボン、黒いベルトに上半身は白Tシャツ。普通にちょっと「変態」ですよね (笑) 

こんな感じで、既成概念をぶっ壊し自由奔放に自己表現をするパクジニョンさんは曲をリリースするごとに衝撃を与えていたそうです。

まさに、業界の異端児ですね。また「Honey」や「kiss me」など後世に残る名曲を数多くリリースし、名実ともにトップ歌手の仲間入りを果たしました。

その後、一時はプロデューサー業に専念し、歌手活動から離れる期間がありましたが、2007年7thアルバム「Back to Stage」で活動を再開。

「Still Alive」「Fever」などパクジニョンさんらしい楽曲を数多くリリースするなど、40代後半とは思えないパフォーマンスを今もなお発揮しています。

「60代でも現役ダンス歌手としてバリバリ活躍することが目標」と語るパクジニョンさん。

今でも、毎日のストレッチやダンス練習、食事制限や体重管理など若手時代と変わらないルーティンワークをコツコツこなしているそうです。

物凄くストイックな性格と強い意志の持ち主ですね。

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【JYPark(パクジニョン)とは】経歴(3) プロデューサー

パクジニョン(JYPark)さんは、下積み時代、仕事がなくディスコで驚っていたところ、当時の人気歌手キムゴンモンのマネージャーにスカウトされました。

この出会いがきっかけで、韓国で1,200曲以上の楽曲を生み出した超有名作曲家・キムヒョンソク氏と知り合い、作曲家・プロデューサーの道を目指すようになりました。

キムヒョンソク氏に弟子になったパクジニョンさんは、日々間近でヒットメーカーの音楽理論を学びました。当時のメモ量は、2年半でノート100冊分にも及んだそうです。

キムヒョンソク氏は、自身のノウハウを惜しげもなく提供していたので、周囲から「これ以上、パクに教えない方がいい」と諭されるほどだったそうです。

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パクジニョンさんは、ソロ歌手として成功をおさめると、1997年に当時の事務所デヨンAVから独立。

JYPエンターテインメントの前身である「テホン企画」を設立すると、本格的にプロデューサー業に専念することになりました。以降の活躍は凄まじく、約20年弱で45曲以上の楽曲をプロデュースし、音楽チャート1位を獲得してきました。

1番最初に育てあげた男性5人グループ「god」は、”国民的グループ”と呼ばれるほど大人気でした。その後も、日本でお馴染みのピ(Rain)、WonderGirlsなど大人気グループを次々と生み出し、トップレベルの音楽プロデューサーとして評価されるようになりました。

特に、韓国における女性アイドルグループの火付け役と称される「WonderGirls」は韓国国内で成功にとどまらず、2009年には米国進出を果たしました。

米国デビュー曲「Nobody」では、韓国初・アジアで50年ぶりに、『米国ビルボードチャート100』でチャートインする快挙を果たしました。また、人気俳優のウィル・スミスに楽曲提供するなど輝かしい実績をあげてきました。

その後も、元祖野獣系アイドルグループ「2PM」や日台韓の混合ガールズグループ「TWICE」など大人気の国民的グループをいくつもプロデュース。

事業も大成功をおさめKOSDAQ上場し、JYPエンターテインメントは韓国芸能三大事務所まで成長させました。

2020年には、日本のソニーミュージックとJYPエンターテインメントがタッグを組んだオーディション番組「虹プロジェクト」で誕生した『NIZIU』を総合プロデュース。

2020年6月30日、プレデビューしデジタルミニアルバム「Make you happy」を日韓同時リリースすると、爆発的な人気となりました。

  • 国内音楽配信サイト 64冠
  • MV再生回数 2000万回突破
  • オリコン週間ストリーミング数 歴代1位
  • ビルボード週間ダウンロード数 歴代1位

など、過去の記録を塗り替える快進撃をみせています。

パクジニョン(JYPark)さんのプロデュース力やメディア戦略が大当たりしており、実業家としての才能も思う存分発揮していますね。

今後も世界的プロデューサー・パクジニョンさんの活躍から目が離せません。

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